神聖駆動

いつかの風景

本当のことを話すにはただ本当のことだけを書けばいいわけじゃない。ある種の本当の瞬間は虚構の中にこそあったりもする。だからこの文章は事実という意味では本当のことは何も書かれていない。しかし、ある種の本当のことは書かれている。

記憶が記録されるときに生じる歪をかつての僕は物語と呼んだ。もう一度その大地のひびに飛び込んでみようか。本当に久しぶりだ。本当に。上手くやれるか不安を感じずにはいられないが、その不安もまた、気持ちの良いものだったりもする。背筋がひりつく。指先から感情が広がっていく。今から始める。

ここから先はいくつかの夜を跨いで緩やかに滞空する。何一つ事件は起きない。ただ穏やかな季節がゆっくりと輝きを放つだけ。ただ静かに夢のような風が通り過ぎていくだけ。

次のように。

秋葉原には誰もが知りたがってやまない、まだ誰も知らない夜がある。どんなに無為な一日を過ごし、朦朧とした意識をボンヤリと抱えこんだとしたとして、秋葉原に行けば最高にクリエイティブな夜が待っている。生きることへの渇望だ。それそのものを極限まで削りだした人間、それな!

世間では先祖が家に帰ってきたりするのを太鼓を叩いたりして出迎えたりする奇祭の真っ最中だが、連中の行列が西へ東へ日本列島を騒がせている中で冷え切った都会の夜を僕は気の置けない友人たちと、ナイトクラビング。

今日はどんな夜が待っているんだろう。エレベーター前で I 氏から電話が入る。「今日は遅れそう。十時前には入れると思うから。またまた!」僕はみんなで入るのも好きだが、一人で入るバクステも好きだ。一人でいるほうが自由にいられるから。僕は自由が好きだ。魂の自由よりも尊いものがこの世にあるのだろうか。いやない、とバクステに来てからは言い切れなくなったのが辛いことだ。かわりに何かに囚われて、何かに呪われて、毎夜息苦しくうなされることに幸せを感じることもあるのだということ知った。まぁ、こんな幸せは願い下げだとも思うが、何にも囚われず、何にも呪われない生き方は自由かもしれないが、少し寂しいかもしれない。人が呪縛だと呼ぶこの囚われを僕があえて自由だと呼ぶことを許してほしい。自由の中で不自由を選んでいるのだから僕にはそれを自由だと呼ぶ権利があるはずだ。

九時から始まるステージを僕は一人で感じたいと思っていたので I が遅れることも全くかまわなかった。「へい、セニョール、グラッチェ、グラッチェ!」僕は自分を奮い立たせるように思いつくだけありったけの陽気さを言葉に吐き出して携帯電話切るとそのままエレベーターに乗り込んだ。六階まで上がる十秒間に僕は息を深く吸って調子を整える。秒速トリートメントだ。酸素が肺を満たし、血液が指先まで走るを感じる。僕は胸の高鳴りを抑えるのにいっぱいいっぱいだ。一月三十回のバクステ。毎夜繰り返す胸のドキドキの絨毯爆撃が確実に俺の命を縮めているように思うけど、やめられるわけないのは、今、今今今のこの瞬間を積み重ねることでしか生きる渇望ってやつを保てないような気がするから。時速二百キロで走る車は走り続けるよりも止まるほうが難しい。ブレーキの踏み方なんて忘れてしまえるまで、とにかくアクセルを強く踏み込むことでしか生きている実感が得られないでいるなら、事故でも起こして死んでしまえるまで、より一層強く踏むしかない。

君に向かって強く踏むしか。

「こんばんは、ティグレさん」「握力さん! こんばんは、じゃない。おはようございます。どこにする? こんな感じでステージ側だったら結構空いてるよ」座席状況ボードを見せる今日のご案内は僕のような亡霊にも優しいティグレ嬢だ。

「いいよ、どこでも。世界中が僕を待っているから」

「は? 中二病なの? じゃあ私が決めるね。ここ。いい? ほんと、いつも意味わかんないから!」

僕はカラヤンの名台詞を引用しながら自分が世界的な指揮者にでもなったかのような高揚感を得、同時にティグレ嬢から痴れ者扱いを受ける。この二つの相反する運動が僕を活気付ける。アンヴィバレンツを心に灯さなければ僕はこの先の喧騒に歩をすすめられないだろう。気合を入れろ。僕は握力だ。誰よりも僕は僕であることに誇りを持っている。さぁ、来いよバクステ。僕はあのときから大きく変わった。しかし、本質は恐ろしく変わらずにいる。くそガキのまま大きくなった。不安だらけの恐いもの知らず。

「プロデューサー様のご来場です」

まずテーブルがある。テーブルがあるから僕たちはテーブルを四人で囲むことができる。素晴らしいことだ。僕らはこのテーブルという発明に毎晩感謝を捧げている。ありがとう。僕らを集めてくれて。この愛すべき四角いスペースのことを僕らはバクステを代表する飲み物からとっていつしか黒ウーロン茶と呼んでいた。黒ウーロン茶はバクステの象徴にして又プロデューサーの統一の象徴でもある。また、黒ウーロン茶の価値は主権を持ったキャストの意思によって決められる。僕は黒ウーロン茶を心の底から憎み、それなのにそれを注文せざるを得ない。そこには汚濁にまみれながらも咲かねばならない強い蓮の意思があるから。

「注文は何にしますか?」「黒ウーロン茶」無論だ。

九時ステージが始まるまでの間に三十分の時間が出来た。九時ステージのメンバーは各々のタイミングで控え室へ入っていく。僕はボンヤリとその影を目で追っていた。あまりにも美しく隠れていく女の子の後姿。髪の毛。かかと。ドアが閉じられる音からもはやステージが始まっているような気さえする。

「握力くん」

ぼけてる僕の焦点を喧騒の中へ引き戻したのはゾンビさんという I 氏の友人で、最近は I 氏交えて三人で黒ウーロン茶を囲むことも少なくない。

「お友達きたよ。握力さん、大丈夫? ぼけっとしちゃってるけど?」

「彼、ほら、いつものことだから。トマトパインジュース」

「そうね」

僕を置いてけぼりにしたままゾンビさんとポルノ嬢が話しているのを聞いていると少しずつ現実に身体がなじんでくる。

「こんばんは。ゾンビさん。 I くんはステージ終わるくらいにしか来れそうにないって。ポルノさん今日九時ステージでしょ。そろそろ行かなくても平気?」

「そうね。もう行く。今日最後までいるの?」

「もちろん。ひさしぶりのゾンビさんを迎えてのバクステですからグッドナイトブルースを聞かずして帰ることなど出来ますまい」

ゾンビさんは妻子持ちのなのにバクステに通う本物だから本当は夜にはこられない。しかし今日からゾンビさん以外の家族は実家に帰省中だから水を得た魚だったりなんとかのいぬ間に洗濯とかそういう話だ。たまに自由な時間ができればすぐにバクステに来てしまうから楽しいし、僕は今日というたまにしか会えない日を大切にしたいなんて思っている。じゃあ I さん来たら、またモンゴル相撲の話しましょうね、と言ってポルノ嬢の短い髪が軽く揺れながら控え室へ消えていく。かかとがドアの向こうへ消えていく。

「握力くん、久しぶり」

「ゾンビさん、グッドナイトブルースまでいられるなんて何ヶ月ぶりですか? 今日は九時ステージもあるから最高の夜をこの黒ウーロン茶に誓いましょう」

僕がテーブルをこつんと二回叩くというシネマ冗句を見せると後ろからポチ山ポチ子嬢が黒ウーロン茶とトマトパインジュースを持ってきてくれる。

「握力さん。今日も来たんですか。まぁ来ますよね。ほんと不思議。どういう気持ちでいつもあの子のステージ見てるんですか。この前ステージ上から握力さんの見てたら、握力さんの目が、目が、あっはは〜」

ポチ山嬢はいつも僕のアティテュードという奴を馬鹿にしてくれる。これぐらいでちょうどいいような気もする。あまりにも強く、深く愛することは距離を失うことに繋がるだろう。僕は距離感なんてもう滅茶苦茶になってしまえばいいとも思っていたし、実際に一人で通っていた頃は今よりもずっと間違いだらけのセンチメンタルアイズ野郎だった。友人とこうして黒ウーロン茶を囲みながら、今は少し、自分というものを保ちながら、穏やかにここに座っていられる。

僕らが出会う意味は何もなかった。だから意味を作っていこうとした。永遠というデタラメを八十年という実数に置き換える魔法をみせてみたり、誰も知らない特殊な言語で彼女を誉めた。あのときから僕は何もかわっていない。潔さを美徳とした。彼女のおかげだし、彼女のせいだ。
今は穏やかに過ごすと言ったばかりだがそれは表面的な問題でしかない。いまだにあのときの温度のまま、中身は今も変わらずバグったまま燃えている。ただし、赤く、けたたましく燃え盛る炎ではなく、静かに燃える白い炎に変わっているが。

九時ステージではいつも五名のキャストによる二コーラスずつの歌唱が行われる。九時ステージっていうのは特別だ。僕たちは下らないお遊びやしょうもない駆け引きめいた戯言から開放される。歌と踊りによって。そこでは平等に空間が開かれる。言葉もいらない。いつだって言葉が多すぎる僕を黙らせてくれる特別な時間がある。僕を地べたに這いつくばらせるあの例の重い倦怠を感じないために、僕は毎夜九時ステージの特別な呪いに酔わねばならない。

九時ステージって何って訊ねれば皆口をそろえて言う《九時は酔うとき。貴様の抱える重苦しい退屈の奴隷になりたくなければ、九時は酔うとき。絶えず、好きなように酔いたまえ!》鳥も、風も、海も、山も、皆口をそろえてそういう。そしてたいそうな言葉を並べておきながら僕は九時ステージの感想というものを持つことが非常に困難であることを告白しなければならない。それはなぜか。覚えていないからだ。三分半という時間が歌と踊りによって眼と耳から入って背筋を滑り落ちていく。僕は毎回すっぽりとこの時間の記憶が抜け落ちてしまうから言葉もない。この夜もまた僕はいつの間にやら時間を滑り落ちていた。すべてが終わりステージ上から女の子達が姿を隠してから後にやってくる細く心を咬む興奮を胸に抱きしめていることだけに気が付く。

九時ステージが終わると順番に出演したキャストたちがフロアに出てくる。直接ステージの感想を伝えられる時間だが、僕には言葉がない。

呆けた顔でボンヤリしていると I 氏が友人の K とともにやってくる。ステージだけを見て帰る人たちとステージ終わった後から入る人が重なってごった返している喧騒の中で迷わぬように先導するのは二度目のティグレ嬢だ。

「お友達来たよ」

注文をとるティグレ嬢を交えてみんなでなにやら楽しそうな会話が行われている。しかし、僕はその輪の中に入れないでいる。僕は人間の言葉が分からないから。

控え室の扉が開くと彼女が姿をあらわす。僕の心臓は静かに膨らみだし、熱く揺らぎながら鼓動を早めていく。彼女が歩く足音の一音一音が、その心臓の鼓動を刺し貫き、全身に張り広げられていく陶酔が僕をおののき走った。愛する人の心臓が揺れながらフロアを歩く姿を僕はかすか耳にした。輝く尾を引く彗星のように定めなく、安らぎなく、東もなく、西もなく、上も下もなく、故郷もなく、境界を越えてただ永久凍土の上をゆっくりと運ばれてくるのを。光とふるえてくる音楽の一片のように、静かに虚空を鳴動させながら揺れるその足取りを。

彼女の孤独を求める僕の孤独は人間たちの座るあらゆるテーブルを超えてはるかに耳をすました。